【すべてが必要な経験だった】私の絶望から光への道のり
更新がなかなできていなくてすみません。
今回は私のことを書いていきます。私が苦痛続きの人生からやっと光が見えるまでの過程を少しずつ書いていきます。
全部書くとかなり長くなるので何回かに分けて記事にしていきたいと思います。
ちょっと重い記事になるかもしれませんが、すみません。。。
また、自分の話とあわせて、不定期で引き続き潜在意識や引き寄せの話も記事にしていきますね。
更新の頻度をなるべく一日一回にあげていきたいと思っています。
実は幼少期から両親との関係がうまくいっていませんでした。特に母親と。
私は幼稚園の頃から、母に勉強をさせられていました。
できないと平手打ち。
夕食の後が勉強タイムです。
違う部屋に連れていかれてマンツーマンで。
今日も母にぶたれるかもしれない。
私はその時間がいたく苦痛で仕方ありませんでした。
また、
私にはこんな思い出もあります。
幼少期、父と母の仲もうまくいっていないように感じました。
私の父はすごく社交的な人。顔が広くつきあいが多いので家にいることはほとんどありません。
ゴルフ、麻雀、パチンコ、ビリヤード、etc。。。多趣味でもありました。
休みの日に父が家にずっといるなんてありえませんでした。必ず出かけていき家に帰ってくるのは夜中。
仕事がある平日も帰りは夜中です。
父が家にいない時、母の機嫌はいつにもまして悪くなっていました。
それは、私たち姉妹(私には3つ下の妹がいます)にとっては地獄のようなディナータイムだったのです。
「叱る」と「怒る」は違うといいます。
叱るは、その人の将来を思って正してあげること
一方、怒るは自分の感情をぶつけ、発散するだけの行為。
母は明らかに後者の方でした。
自分のイライラを子供にぶつけていたのです。
父がいない時の母は何かが違うということがわかりました。子供はどんなに幼くてもちゃんとわかります。親の背中を見ているのです。
父がいない親子3人での夕食はものすごく暗いものでした。親子団らんで楽しく食事をするなんて私たちにはなかったのです。
母は、少しでも食事中に気に入らないことがあると私たちにイライラをぶつけてきました。
何かこぼしただけでも平手打ち。
食べ終わる時間が遅いと言って、私たち姉妹が食事をしているのに部屋の電気を真っ暗にされ母は寝室にさっさと行ってしまうのです。
私と妹は、母に対してびくびくしていました。緊張感で食べ物が喉を通りませんでした。
夕食になると食欲がまったくわかなくなるのです。
妹はまだ4,5歳くらいだったと思います。夕食時の緊張からか、妹はいつからか夕食前になると日課のようにおなかを壊すように。
そうなると夕食がちゃんと食べられません。夕食時におなかが痛いと言ってトイレに行く妹にも母は容赦はしませんでした。
「食べ終わるまで寝るな」
母は、おなかが痛くてごはんが食べられない妹、そして私をそのままリビングに残し、部屋を真っ暗にして寝室へ。
もうおなかが痛いから食べられない、妹と私は真っ暗な部屋で怖さを感じながら、どうしたらよいのかわからずに泣きながらお風呂に入ろうとします。
すると母がすかさずやってきて、
入浴中でもおかまいなしに妹と私を引きずり出します。
「食べ終わるまで寝るなといっただろ」
時には外に出されてカギをかけられることもありました。
あまりにも理不尽すぎる。妹はおなかが痛いと言っているのに。それでも無理やり食べろというのか。
私は、この人だけは許せない、実の母親に対して子供ながらにそう思うようになりました。
親という権力を振りかざして恐怖心を植え付ける。まだ未熟で幼い子供を感情のままにコントロールする。。。叱って道を正すというのとは明らかに違うということを感じていました。
今でも、私の頭の中で、母親に引きずられて妹が泣き叫ぶ声を覚えています。
また、大人になった今でも、道を歩いていてどこかの家から夕飯の匂いがすると胸が締め付けられるような切なくて苦しい気持ちに襲われるのです。
家に帰りたくない。。当時の私の心の叫びでした。
幼少期、家の中にいても常に緊張感で多大なストレスを感じていました。
私はのちに、対人恐怖症、社会不安障害の症状に悩まされることになります。
母との関係が私の人生に暗い影を落としたのです。
私は自分の精神状態がおかしいと思い、中学生の時に父に相談したことがありました。
何かがおかしいから病院へ連れて行ってほしいと。口では言えなかったので手紙にしてわたしました。
外に出ると人の目が気になって冷や汗が出る、人とうまく目が合わせられない、うまくしゃべることができない、人が怖い。。。もう限界でした。
しかし、子供に興味がないのか、自分の遊びに夢中な父は私と向き合ってくれることはありませんでした。
父は私に「いろんな人と話せばそのうち治るよ」の一言だけ。
私はその日から、自分のことを両親に話すことはなくなりました。
私は、母、または父への許せない気持ちを抱えたまま成長していきました。
幼い頃の思い出の他にも、母には何度も不信感を抱くような出来事がありました。それがより一層、私と母の距離を広げていったのです。